作業療法士と病院

「アノ匂い」が消えた不思議

介護病棟の担当になり、1年が過ぎる頃、私はちょっとした変化に気づいた。Y病院の1階の、日当たりの良い廊下を通って「介護療養型病棟」というプレートの掛かった、重い防火扉を開く瞬間。

鼻腔に飛び込んでくるはずの、あんなに嫌いだったお年寄りの「匂い」。

あの匂いはどこに行ったのだろう??

不思議に思い、当時入ってきたばかりの、ちょっとギャル的な新卒看護師さんに聞いてみた。

「ねえ、ぶっちゃけさ、ここの病棟って何か匂いする?」
すると今までニコニコしていた彼女が思いっきり眉をひそめてこう言った。

「何か匂うなんてモンじゃないっスよー!!もう毎日ウンコくさいっつーかゲロくさいっつーか最低っっスよー!!ていうか何でみんな我慢できるんすか??」

私の鼻は、鈍磨している。

病棟の匂いは、おそらく改善してないのに…。

そう、1年で私は、お年寄り独特の匂いが気にならなくなっていたのである。担当したばかりのヤル気の無かったころは、申し送りに来るたびに毎朝吐き気に襲われていたのだ。そして前述のギャル看護師さんは、こうも言っていた。

「ていうかウエノっちヤバイっスよ~。おソノばあちゃんとかゲンジさんとか、弄便行為あるのに、時々ハグったりずっと手つないだりしてるじゃないすかあ。ぜってー何かつけられてますって」

そういわれれば、そうである。老人独特の体臭のみならず、介護療養型病棟にはウンチや吐しゃ物の匂いが充満している。

弄便行為(ウンチで遊ぶ…)がある患者さんもたくさんいるし、オシッコをまき散らしたりしたらもちろんスタッフが大急ぎで掃除と消毒を行うけれど、瞬時に匂いが消えるほど生易しいモンではない。

たまに面会に来るご家族が、しばらく鼻にハンカチを当てたまま固まっている光景をよく見かける。なのに、当時の私はじつにさわやかな気分で日々仕事に打ち込んでいた。

学生のころにも、これと少し似たような経験をしたことがある。H大医療短期大学部の作業療法学科で学んでいたころ、医学部での解剖学実習というのがあった。

クラス全員で医学部の解剖室に赴き、献体(医学生などのために、死後自分の遺体を提供するという意思を示していた方の遺体)をお借りして解剖学の実習を行う。このとき、20人ほどいたクラスメイトのうち5~6人が途中で退室。気分が悪くなったのだ。

解剖学実習は、すでに切断してある献体の頭部や骨、内臓に触れ、脳や脳膜、病巣部位のある内臓や腱を観察するというものだった。誰もが初めて見る本物の人体の切断面にショックを受けるのだが、献体が発する匂いも相当なものである。

もちろん腐敗した匂いではなく、体液が流れ出ないように使用している「固定液」と呼ばれる薬品の匂いが主なのだが、この匂いがまたたとえようもない。臭くて、赤紫色で、表情の消えた遺体はまるでゾンビの残骸のように思え、強がってるヤツもいたけれど、大抵の学生はビビッてしまうものだ。

私も1回目の実習の後、遺体の匂いが鼻腔から離れず、しばらく肉を食べられなかった。日清カップヌードルに入っているキューブ型の小さな肉片でさえ、箸で丁寧によけて食べていたほどである。

しかし1週間後、2回目の解剖学実習の時、参加者ほぼ全員に変化が起きた。

1度目は準備にバタつき、黙祷のみでスタートした実習だが、2回目にして担任の先生がこんな話をしたのだ。

「献体というものの意味をもう一度考えてみましょう。ここに横たわっている方々は、かつてあなたがたと同じように生きておられました。そして、何らかの病気を患ってH大病院に入院し、その入院生活の中で後生のために、自分の遺体を提供することを思いつかれたのです。

もしあなたがたの肉親が亡くなり、その遺体が学生たちに提供されたとして、不気味がられていたり、匂いがどうのこうのと言われていたら、どう思いますか。腹が立ちませんか」

私たち学生はそれぞれ、静かに未熟な想像力を働かせた。

「先生は怒っているわけではありません。誰だって、初めて遺体を見たり触れたりしたときは衝撃を受けます。しかし、そのショックや苦しみと、病と闘い、死期を意識しながら過ごす苦しみと、どちらに重みがあるか。

また、死に迫っていく苦しみの中で、献体として役立とうと思われることの、いかに尊いことか。それが理解できない人に、医療現場に立って欲しくはありません。よく考えて、今日の実習に当たっていただきたい」

先生よぉ、そういうイイ話は初日にしろよ…誰もが心の中でツッコんでいたことは否めない。が、とにかく驚いたことに、その日は1人の退場者も出ず、前回最もまいっていた同じクラスのMちゃんが、余裕の表情で脳膜をピンセットではがし、思いっきり顔を近づけて観察していた。

私もカップヌードルの四角い肉はもちろん、その翌日くらいにはスーパーで安売りされていたホルモンを調理して食べられたのである。

五感は感情と、密接に関連しているのだ。キライな人の悪臭はこの上なく気になるが、嫌悪感がなくなってしまうと、多少なりともやわらいだり、極端なケースでは消えてしまう。

そして、ウンチをこねこねしたり、自分が吐いたゲロで遊んだかもしれないじいちゃん・ばあちゃんの手のひらだって、バッチコイである。万一なんかついたって、洗えばいいし消毒液もある。

このことはもっと突っ込んで調査と実験を行い、論文にまとめたいくらいだ。

コント・仮装・寸劇…作業療法士は何でもやる!!
苦手だったお年寄りが、好きになった!!